弔辞

 

                       東京学芸大学附属中学校卒業生代表

                                  池井 優

 山地英太郎先生、日本人の平均寿命が延び、長寿の方も多くなりましたが、先生だけは
いつまでもお元気でおられると思っておりましたが、この度訃報に接しました。百四歳
まさに天寿まっとうといえると存じま
す。

 われわれ東京学芸大学附属中学校一回生B組が先生に担任をしていただいたのは、戦後
の混乱がまだ色濃く残っていた昭和二十四年四月から翌二十五年三月のわずか一年間のこ
とでした。われわれのクラスB組はよくいえば個性派、やんちゃ坊主、悪童が多く、手に
負えないクラスでした。二年までの担任はとても面倒見切れませんと投げ出し、教員会議
を開いても「三年B組だけは勘弁して欲しい」と誰も担任のやり手がいず、教頭で本来な
ら担任をやる義務のない先生が引き受けることになったと聞きました。

 われわれ三年B組はいろいろ問題を起こしました。気に入らない授業をクラス全員がボ
イコットし下馬の木造校舎の教室を飛び出し近所の神社までいってしまう“エスケープ事
件”、放課後にストーブ用の石炭の搬入をやらされたことに不満を持ち、石炭を投げてガ
ラスを
起こすな割る“石炭事件”、極めつきは一部生徒が夜間に酒を飲んで騒ぐ“飲酒事件
”を起こすなど手に負えないクラスでした。そこへこられたのが、山地先
でした。「実
は昨夜三Bの生徒の何人かこんなことをやりました」との職員の訴えに先生は考えました
。相手は未成年だ、やり方次第では指導の責任も問われる。考えた先生は、当事者を呼び
出しこう言われました。

 「昨夜、酒を飲んで騒いだそうだね。わしもそういうことが大好きなんだ。今度やると
きはわしも仲間に入れてくれよ。ただ、酒はいかんよ」

 こっぴどく叱られるか、殴られるか、ひょっとして停学、退学まで覚悟していた悪童ど
もはこの対応に驚き、以後すっかり山地先生に従うようになりました。

 われわれは卒業し、先生も附属中学を去って東京都教育庁の職場を転じられましたが、
三年B組の生徒たちはいつまでも先生を忘れず、先生を囲んで集まったり、先生のお宅を
お訪ねしたり、交流が絶えませんでした。先生をお招きしてクラス単位で集まったのは、
先生が九十九歳=白寿をお迎えになった時でした。ご自宅に近い三鷹のホテルの一室にご
子息同伴でおいでいただき思い出話に花が咲きました。ささやかなお祝いに対し、律儀な
先生から丁寧なお返しを頂戴し恐縮しました。その後個別の接触や、年賀状を通じてのや
りとりはありましたが、電話の会話も遠慮されるようになり、案じておりました。

 そして、この度悲しいお知らせに接しました。私自身、中学を卒業後十五年たって大学の
教壇に立つことになりましたが、教育者として参考にしたのは先生でした。かっての悪童
も八十歳=傘寿を過ぎ、先生の跡を追う日もそう遠くないと存じます。その折は天国でま
た思い出話にふけりましょう。先生安らかにお眠りください。さようなら。

 

 平成二十八年十一月十四日